死への恐怖
私は今日も死への恐怖感が湧き上がりました。
発作的に起きるこの症状はふとしたときに突然襲ってきます。
死ぬと言うよりも自分が無になるという恐怖です。
今見ているこの景色も感覚も意識もすべてが無くなり、それは永遠に続くという恐怖です。
現在の日本では死の意識を持つことが少ないです。
日常ではそんなこと考えもしません。
だからこそでしょうか?
この不慣れで遠縁な死を少しでも感じると一気にその恐怖感が火山のように吹き出してきます。
しかし慣れたいと思うものでもありません。
身近な人の死も勘弁です。
それに実は悪いことばかりではありません。
死を感じるとそれはもう言い表せないほどの恐怖でどうしようもなく焦り、混乱します。
小さいときはただ落ち着くまで待っていました。
でも今は違います。
いつか死ぬんだ、永遠に無になる日が必ず来るんだ。この体も意識も本当に無くなる日が絶対に訪れる。
じゃあ何をする? こんな考えが浮かびます。
小さくてただ守られる存在だった自分は何もできなかったし、自分のことしか頭にありません。
でも今は、子供がいないにせよ、病弱な妻がいます。それに高齢になってきた両親もいます。
つまり守りたい人たちがいます。幸せにしたい人たちがいます。
こうなると考え方が変わるんですね。
どうせ死ぬなら愛した人たちをちゃんと幸せにしてあげたい。何か残してあげたいと思うようになりました。
そうなると落ち着くどころか、今悩んでることが小さく見え、何にでもチャレンジができるようになった気がします。
しかし、これも一眠りすれば効果が切れます。
そのため最近は落ち着くための一時的な感情(技術)なのか?と捉え始めました。
だとすれば、それは最も悲しいことです。
家族を守ろう、幸せにしようという気持ちが虚像でしかなくなるのですから。
一方で危険の少ない平和な状況だからこそ、一時的にしか死を意識できない。
それにより効果が持続できないのかもとも思いますが、それはそれで悲しいです。
なぜならば、人生には痛みや苦しみが無いと優しくなれないし、勇気も持てないということを証明しているような気がするからです。
誰だって、辛い経験は遠ざけたい存在です。でもそれがなければただ堕落していくだけで、それこそ死ぬ間際に後悔が多いことでしょう。
つまり人生には苦しみが必要と認めなければなりません。
正直そんなことはわかりきっていることですが、可能であれば、やはり楽しい経験のみをしていきたいものです。
そう思うと人生自体が辛いもので、死は解放という考え方もできます。
かといって自殺はできませんが。
なんにせよ、いつも死を実感したあとのやる気が長続きしませんので、今回こそは持続的な力に変えていきたいと思うばかりです。